春の、うららかな休日の朝。
 誰もが惰眠を貪りたくなるであろうこの時間、俺は机に向かっていた。

「今日は英語の小テストをするぞ」
 彼女はそう言って、机の上に裏返しの紙を置く。
「抜き打ちかよ……」
 俺が思わずそう漏らすと
「この時期は気がたるみやすいからな。常にテストがあると覚悟しておけ」
 俺の家庭教師はにっこりとそう言った。


 学年が上がり、俺は2年生になった。
 高校2年生といえば、新入生の緊張感もないし、まだ受験生でもないし……な、ちゅうぶらりんな年で有名だ。
 ある者は部活に没頭し、ある者は遊びに明け暮れ、ある者は翌年度の受験に備え勉強に力を入れる。
 まあ、大抵の者は将来の不安を抱えつつも、まったりと学生生活を楽しむのだろう。
 俺も、まあそんなところだ。

 けど、勉強はおろそかにしていない。
 おろそかにしたらせっかく3月いっぱいで辞めることが出来た塾に舞い戻る羽目になるし、そもそも彼女が許さないだろう。

 それに、俺の成績が落ちて、万が一(ないとは思うが)母さんが彼女を解雇してしまったら彼女に合わせる顔が無い。

 人間として転生したオーアは、それこそ普通の人間の生活を送っている。
 市内の安いアパートを借りていて、以前様子を見に行ったのだが、かなりボロいアパートだった。
 家賃、その他の生活費は俺の家庭教師代と、父さんの知り合いが経営する飲食店でのバイト代でやりくりしていると聞いている。
 このご時勢、それでもなかなか厳しいらしい。

 ……言ってしまえば彼女は忙しいわけで、最近はあまり彼女とゆっくり出来る時間がないのだ。

 だから、気兼ねなく過ごせるこの家庭教師の時間は、非常に貴重と言える。


 俺が紙を表にしようと手を伸ばすと、彼女が思い出したようにこう言った。
「満点を取ったらごほうびをやるぞ。そのほうが張り合いがあるだろう」
「ごほうび?」
 俺が首をかしげると、
「あ、物は駄目だぞ。金がないからな」
 彼女は慌ててそう付け足した。
 ……ほんとに余裕なさそうだな、なんて思っていると、彼女は少し逡巡してからこう言った。

「まあ、てっとりばやく、キスとか」

 ……なんてことを言い出すんだこいつは。

 ……と思ったのだが、なぜか俺の口から出てきたのは
「どこにしてくれるんだ?」
 なんてキザな言葉で。
「……!」
 予想外の返答だったのか、彼女は顔を朱に染めて一瞬黙り込んだ。
 が、年上の威厳を保とうとしているのか、オーアはこほんと咳払いをひとつして
「ど、どこでもいいぞ? お前の望むままだ」
 そう言った。
「ほんとにどこでも?」
 俺の確認に、彼女はどこか動揺しつつ
「……わ、私に二言はない」
 そう言い切った。
 俺はそれを確認してから
「……よし、やるぞ!」
 元気にそう言うと、頭に軽くチョップが飛んできた。



 30分後。
 結果は、92点。
 ……2問半の間違いだった。

 あまりの中途半端さに俺は机に突っ伏す。
 ――満点じゃないなら、もっと悪い点がよかった……。

「……そんなに落ち込むなよ。少し難しめの小テストだったんだから、な?」
 オーアが苦笑を浮かべながら俺の肩を慰めるように叩く。
 しかしなおもうなだれる俺を見て、
「……そ、そんなにしてほしかったのか?」
 オーアは少々戸惑い気味にそう尋ねてきた。
 俺は少しだけ顔を上げて、拗ねるように呟く。
「……だってお前の、上手いから。勉強しようと思って」
 オーアは顔を赤くした。
「そ、そんなものまで勉強せんでいい!」
 再びチョップ。
 が、彼女はふと思い出し笑いのような笑みを浮かべて
「……まあ、お前のは逆に拙くて可愛いぞ」
 そんなことをこぼした。

 ……。
 …………。
 そんなこと言われたら余計に諦めきれなくなるじゃないか!

 俺はじっと彼女を見る。
「……そ、そんな目で見るなよ」
 彼女はたじろぐように一歩下がった。
「……」
 しかしなおも俺はじっと彼女を見つめる。
「……うぅ」
 気まずげに彼女は視線を逸らすが、頬が赤くなっているのが分かる。
「……」
 最後の一押しといわんばかりに、俺は目に力を入れた。
「……わ、わかったから! お、おまけだぞ」
 俺の視線に耐えかねて、とうとう彼女はそう言った。

 そっと、彼女の細い指が俺の頬にかかる。
 そして。
 頬に軽く、唇が触れた。

「おまけだからな、これで我慢するんだぞ」
 彼女は俺に諭すようにそう言ったが。
「……」

 ……甘い。
 このへんで我慢できたら男としてむしろ駄目だと思う。

「だ、だめだぞそんな目で見ても。ルールはルールだからな、おまけで我慢だ!」
 彼女は必死にそう言っているが。
 俺は椅子から立ち上がって、彼女の腕を引いた。
「……じゃあ、俺がする」

 腰に腕を回して、身体を引き寄せる。
「……!」
 彼女が息を呑んだ瞬間に、その唇を塞いだ。

 優しく、唇を揉む。
 甘い息が漏れて、彼女の身体から力が抜けていくのが伝わってきた。

 唇を離すと
「……、ばか、まだ授業中……」
 顔を真っ赤にして、恨めしげに俺の目を見つめてくる。
 けど、その眼はどこか期待も篭っているような気がして。
「……まだ足りないって顔、してるみたいに見えるけど?」
 俺がそう言うと、彼女の顔はさらに赤くなった。
 そんな様子が可愛くて、もう1度、顔を近づけると……
「だ、め、だ!」
 彼女はずいっと、俺の胸を押して離れた。
「金で雇ってもらっている以上、この時間に勉強以外のことをするわけにはいかない。ほら、お前も座れ」
 彼女はそう言って、家庭教師専用椅子に座った。
「…………はいよ」
 俺はしょんぼりしながら、また椅子に戻る。



 正午前。
 その日の予定は無事終了した。
「ん。最初はあんなだったわりによく集中してたな。感心した」
 オーアはそう言って、本を閉じた。
「小柴とかにも切り替えはうまいってよく言われる」
 俺もノートを閉じて、伸びをする。すると
「……切り替え、な。確かにお前は変なところで妙に積極的……」
 オーアは何か言いかけて、思いとどまったように口を閉じた。
「なんだよ」
「な、なんでもない。ほら、そろそろ昼食の時間だぞ」
 彼女は逃げるように部屋の出口へ急ぐ。
 土曜の昼飯は彼女も家で食べることになっているのだ。



 母さん手製のパスタを食べた後、俺はオーアを彼女の家まで送ることにした。
 夕方からはまたバイトが入っているらしく、正午をとっくに回ったこの時間だと2人でどこかに出掛けるにも出掛けられないのだ。
 だからせめて、少しだけでも長く一緒の時間を過ごそうという魂胆なのだが、なかなか気の利いた話題も思いつかず、しばらくはただ無言のまま、2人並んで歩いていた。

「……なあ、夜のシフトだったら帰るの遅いんだろ? 大丈夫なのか?」
 ブロック敷きの歩道を歩きながら、ふと傍らの彼女に尋ねる。
「何がだ?」
 彼女はきょとんと返してくる。
 ……ほんとに分かってないな、これは。
「夜道」
 俺がそう言うと、彼女はああ、と手を叩く。
「バイト先とアパートまでは歩いて10分もかからないからな、大丈夫だ」

 ……確かに近い距離だけど。
 今度こっそり、その辺の道の偵察に言ってみようかな。

 俺が胸のうちでそう考えていると
「なんだ、心配してくれてるのか?」
 彼女はどこか嬉々とした表情でそう尋ねてくる。
「……お前無防備だからな」
 『当たり前だろ』と素直に言えず、なぜか皮肉っぽい言葉が出てしまう。
 すると彼女は若干眉をひそめて
「お前もアージェントみたいなこと言うなあ。確かに以前と比べたら飛んだり跳ねたりは出来なくなったがそれなりの体術は心得ているつもりだぞ」
 俺の腕をさっと取ったかと思うと、ドラマで見た警察官のような動きで俺を拘束し、腕を捻った。

「ぁたたたたたッ!?」

 俺が悲鳴を上げると
「! す、すまん」
 彼女はぱっと腕を放した。

 ……骨いかれるかと思った。

 俺が腕をさすっていると
「……大丈夫か?」
 彼女は心配そうに目を覗き込んでくる。
「……ん。お前が強いのはよく分かった」
 俺はそう言って、また歩き出す。


 また会話の種が尽きて、しばらく黙ったまま歩いていると。
「……サツキ、もしかしてさっきの怒ってるのか?」
 彼女が探るように、おずおずと尋ねてきた。

 単に話のネタがないから黙ってただけなんだが、確かにそう取られても不思議じゃないかもしれない。

「いや、別に……」
 そう答えかけたそのとき。

「オーアさん?」

 ふと、前からやって来た男が声をかけてきた。
「ああ、どうもこんにちは」
 オーアは朗らかにそいつに挨拶を返す。
「お出かけですか?」
 その男――俺の嫌いな薄ピンクのワイシャツ姿――は彼女にそう尋ねた。
「いいえ、家に帰るところです。夕方から店に入るので」
 オーアがそう言うと、男は爽やかな笑顔――俺にはどうも胡散臭く見える――で
「そうですか。今晩もまた友人と飲みに行くんで、よろしくお願いします」
 軽くお辞儀をする。
「いつもごひいきにして頂いて、ありがとうございます」
 オーアもぺこりとお辞儀を返した。
 俺がそんな2人のやりとりをじっと見ているのを察したのか、男は
「すみません、お友達が一緒のところをお邪魔してしまって。ごめんね」
 最後のひとことは俺に言って、去っていった。

 ……『ごめんね』って!
 俺はそこまでガキじゃねーぞ!!
 それに『お友達』でもないぞばかやろー!!

 心の中で地団太を踏みながら奴の背中を見送っていると、オーアがくすりと笑みをこぼした。
「お友達、か。やっぱりまだそう見えるか」

 やっぱりってなんだよやっぱりって!!

 ……と彼女に不満を言いたかったのだが、まず問うべきはこれだ。
「誰だよあいつ」
 自分でも驚くくらい不機嫌丸出しの声だった。
 ピンクのシャツを着ていた時点でなんとなく鼻につく奴だったんだ。うん。
「店の常連だ。仕事帰りによく来る」
 オーアは淡々とそう言ったが
「あいつ絶対お前に気があるぞ」
 俺がそう言うと、彼女は『はあ?』と首をかしげた。
「どういう根拠だそれは」
「目、見れば分かるっての」

 常連といえどなんとも思ってないバイト店員を道端で見かけて声までかける奴なんて今時いないだろう。
 せいぜいお辞儀だけだよな?

「……むぅ」
 彼女はまだ納得のいかない風で、首を傾げている。

 ……こいつはほんとに分かってない。
 自分がどれだけ魅力的かっていうのをもっと自覚するべきだと思う。

 バイト先を案内した父さんがいつぞや言っていたが、店の店長さんもオーアの働きぶりには感心しているそうだ。
 愛想良いし、気が利くし。くわえて器量も良いとなれば文句の付け所がない。
 しかも男性客のみならず女性客にもウケがいいらしい。
 ……好かれやすいオーラってのがあるんだと思う。

「……はあ」
 思わず大きな溜め息が出てしまった。

 さっきの奴にも言われたが、どう足掻いても、俺と彼女が並んでたってカップルには見えないのだ。
 最近はちょっとずつ身長も伸びてきたけど、それでもやっと彼女に追いついたくらいで、まだ見下ろせるまでには至らない。
 それにもともと童顔だから、中学生に間違われることだってまだある。
 ……せめて今の小柴くらい大人びた顔つきになりたいものだ。

「どうした、溜め息なんかついて」
 オーアがうなだれた俺の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「……別に。自信を喪失してるだけだ」
 俺がそう呟くと、彼女はさっと俺の手を取った。
 ――!?
 さっきのことがあったせいで、また何か関節技でも決められるのかと身構えたのだが……。

「ん」
 彼女は自分の手を俺のそれと絡めるようにして、しっかりと繋いだ。

 ……これって……。

「恋人同士はこうやって手を繋ぐんだろう?」
 彼女は笑顔で、俺にそう言った。
「…………あ、ああ」
 誰ともしたことがない手の繋ぎ方に、胸がそわそわする。
 その一方で、じんと温かいものが胸に広がっていく。

 ……肝心の彼女は、ちゃんと俺のことを『恋人』だと思ってくれているらしい。

 完全に緩んでいるだろう俺の顔を見て、彼女はまた嬉しそうに笑みをこぼすと、再び歩き出した。

 テンポを合わせて、一緒に歩く。
 ただ、手を繋いだだけなのに。
 会話なんかなくたって、十分安心していられた。



 とうとう、彼女のアパートまで辿り着いてしまって、別れのときが来る。
「まだ時間に余裕があるし、本当に上がっていかないのか?」
 彼女はそう訊いてくれたが、俺は丁重に断っておいた。

 ……前に上がったときはクリムや綾と一緒だったから問題なかったんだが、俺1人で上がると色んな意味でまずい気がする。
 狭い空間で大好きな人と2人きり、しかも誰の邪魔も入らない……なんてシチュエーションは若い男にとって誘惑以外のなにものでもない。
 お邪魔するのは、もう少しだけ俺が大人になってからにしようと決めているのだ。

 とは言いつつかなり後ろ髪を引かれながら、
「……またな」
 俺が必死に平静を繕って帰ろうとすると。
「サツキ」
 彼女の声に呼び止められた。
 ふと振り返ると。

「……!」

 唇に感じる温かな温度。
 風に乗って流れ込んでくる彼女の匂い。
 何度味わっても薄れることのないその優しい衝撃に、思わずめまいがした。

 そっと唇を離す。
 彼女は一歩退いて
「……心配してくれたお礼、だ」
 照れるようにそう言った。
「…………お、う」
 俺は熱くて発火しそうな顔で、こくりと頷いた。
 彼女からのキスは、珍しいのだ。

「またな」
 彼女が手を振る。
「……明日、店見に行くよ」
 俺がそう言うと、彼女は笑顔で頷いた。


 空を仰ぎ見る。
 キス1つで真っ赤になってしまった頬を冷ますように、風に当てながら歩き出す。

 ……やっぱり俺はまだまだガキで、彼女とはなかなか釣り合わないけど。
 きっといつか、ちゃんとリードできるようになってみせる。

 それまでは、こういう小さな幸せを、積み重ねていけたらいいかな、なんて。

 ……ああ俺、今絶対顔にやけてるって!!

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