ある夏の、土曜の夜。
 いつものように榊と夕食をとって、お茶をすすって、テレビを見て。
 そろそろ風呂に入って寝る時間かなと思われる頃、いつものように榊は自室へと戻るべく席を立った。
 ……のだが。

「? どうした?」
 榊は席を立ったまま、しかし動かない。
 何かを真剣に考えている顔をしている。
 そこはかとなく顔色が悪いようにも見えた。
「具合悪いのか?」
 心配になって彼女の顔を覗き込むと、
「いえ、その、そういうわけではないのですが!」
 彼女は慌てて顔を上げたが、その眼はなぜか泣きそうに潤んでいた。
「ど、どうした? 俺なんかした?」
 心当たりはさっぱりないのだが思わずそう口走ってしまうほど。
 しかし彼女はふるふると首を振り、そして。
「……冬馬様」
 ぎゅっと、俺のシャツの裾を掴んだ。
 その手すらどこか震えている。
「な、なに?」
 ただならぬ雰囲気に、思わず声が裏返ってしまう。
「大変勝手なお願いだとは重々承知しているのですが……」
 榊は恥ずかしげに頬を朱に染めながら続けた。
「う、うん?」
 俺が促すと、彼女はひとつ息を吸って、言った。

「今夜は、こちらに泊めていただけないでしょうか」

 ……。
 …………。
 えええええええ!?

「な、何、それって、えっと」
 顔が熱くなる。これは男としては当然だ。
 が
「私の寝床はこのソファーで構いませんから、どうかお願いします」
 深々と頭を下げた榊を見て、煮え立ちそうになっていた俺の頭は急激に冷めた。
「う、うん?」
 どういうわけだか知らないが、彼女は純粋に『この家に』泊めてほしいと言っているに過ぎないらしい。

 ……うん、そうだよな。
 榊がそんな急に大胆な行動になんて出ないよな。あはは。俺の馬鹿。

 俺はとりあえず彼女を座らせて、話を聞くことにした。
「榊の部屋で何かあったのか?」
 そう、今日は朝から榊の部屋に彼女の友人である田中さんと野島さんが遊びに来ていたはずなのだ。
 なんでもお茶をしつつビデオ鑑賞会をしていたのだとか。
 ちなみに榊の部屋のテレビはうちが持て余していた1台をあげたものだったりする。
 以前よりは幾分マシになったが彼女の部屋には本当に娯楽、装飾の類がない。
 せめてテレビくらいはあったほうがいいと思って贈ったのだが、それが今日役に立ってくれて本当に良かったと思っていたところだったのだが。

「……その、とても申し上げにくいのですが……」
 榊は本当に言いにくそうに俯いていたが、ようやく意を決したのか、俺の目を見て言った。
「怖いんです。幽霊が」
「……ゆうれい?」
 一瞬ぽかんとしてしまったが、じわじわとどういうことか分かってきた。

「もしかして今日見たビデオって、ホラー映画だったのか?」
 俺が笑いをこらえつつそう問うと、彼女はどこか恨めしげに、しかしはっきりと頷いた。
「……はい。女の幽霊がテレビの中から出てきて人を呪い殺してしまう映画でした」
 ……あー、あの有名な呪いのビデオのあれですか。
「榊怖いの苦手だったよな? 前もって2人に言ってなかったのか?」
 俺が尋ねると榊はぐったりとうなだれた。
「……その、日本のホラー映画というものがどの程度のものなのか知識として知らなかったものですから」
 ……あー。なるほど。
 日本のホラーって国際的に見ても水準高いって言うしなあ。
「そ、それに見ているときはまだ平気だったのです。田中さんと野島さんが側にいましたから」
 ふんふんと頷く俺。
 多分あの賑やかな田中さんのことだから、2人を巻き込んですごい叫んでたんだろうな。
「……で、ひとりになると急に怖くなるんだ?」
 俺は今日の夕方のことを思い返して少し意地悪に笑ってしまった。
 土日は大抵夕飯を作りにきてくれる彼女なのだが、今日に至ってはいつもより1時間も早くやってきたのだ。
 今思えば、恐らく2人と別れた後の1人の時間が耐えられなくて俺の部屋に来てくれたのだろう。
「…………」
 榊はというと、図星といわんばかりに顔を赤くしつつ、しかし真摯に胸中を語る。
「あの映画を見てから、背後に何かいる気がしてしょうがないのです!」
「んー、まあ分からないでもないかなあ。怖い映画とか見た後ってなんか風呂場とか髪乾かすとき怖くなるんだよな。後ろ振り返ったら何かいそうで」
 あはは、と俺が笑ってそう言うと、しかし榊は固まっていた。
「……大丈夫か?」
「……だい、じょうぶ、です」
「……ほんとに? 声ガチガチだぞ?」
「……ほん、とです! だい、じょうぶです!」
「風呂、入れるか?」
「入れますっ!」
 流石に最後の質問は不躾だったかと思ったが、これで榊の闘争心(?)に火を点けられた気がして俺は少しばかり安心していた。

 ……の、だが。

 俺が先に風呂に入らせてもらって、その後榊の番に回った最中に、その悲劇は起こった。

 俺が麦茶片手にバラエティ番組を鑑賞していると、突然部屋の照明とテレビの電源が落ちたのだ。
「あ」
 間違いなく、停電だ。

 ――まずく、ないか?

 俺は風呂場のほうへと手探りで直行した。

しかし流石に無断で脱衣所の扉を開けるわけにはいかない。
ので、恐る恐る外から声をかけてみた。
「榊? 大丈夫か?」
 すると途端に目の前の扉がガラリと開いて
「わわっ!?」
 腕の中に、彼女が飛び込んできた。

「さ、かき?」
 ドライヤーをかける寸前だったのか、濡れたままの髪が俺の胸に当たっている。
 普段の彼女なら、俺の服が濡れてしまうことを察してすぐに退くのだろうが、今の彼女はそのままじっと動こうとしない。
「…………」
 俺はそのまま、電気が回復するのを待った。


 しばらくすると、何事もなかったかのように明かりが点いた。

「榊。電気、点いたぞ」
 俺がそう囁くと、彼女ははっと顔を上げた。
「! す、すみませ」
 その時の彼女の顔がそれは真っ赤で――恐らく羞恥や申し訳なさ、安堵が全部こみ上げているのだろう――純粋に、可愛かった。
 から、とっさに離れようとした彼女の肩をそのままもう1度抱き寄せていた。

「!?」
 今度こそ、榊は慌てている。
「あの、冬馬様、お召し物が濡れてしまっているのですが!」
 確かに、パジャマ代わりのTシャツはもうしっとりと水分を含んでしまっている。けど
「一緒に乾かすからいいよ」
 俺がそう言うと、彼女は微かな困惑の表情で俺を見上げた。
「俺、前から1回榊の髪、梳いてみたかったんだ。一緒にドライヤーで乾かそう?」
 俺がそう言うと、彼女はさらに顔を赤くした。
「そ、そのようなこと冬馬様にさせられません!」
「俺に髪、触られたくない?」
「そ、そういうことではなくて、その、恥ずかしいので……」
「駄目?」
「だ、駄目というわけでは……なくて」
「じゃあ、しよう」
 俺は笑顔でそう言い切って、ドライヤー片手に彼女をリビングに連れていった。



「……あの、冬馬様」
 背中を向けたまま、榊が戸惑いがちに尋ねてくる。
「ごめん、痛かった?」
 出来るだけ丁寧にゆっくりと櫛を動かしていたつもりなんだが、と思っていると
「いえ、全く。……というかその、慣れてませんか?」
 彼女はそう、訊いてきた。
 彼女は背中を向けたまま床に座っているのでどんな顔をしているのか分からないが、声のトーンに少し疑いの色が混ざっていて、俺は思わず苦笑した。
 確かにこれは誤解されるかもしれない。
「いや、昔からよくやってたんだよこういうの。施設にいたときとか、妹分の子達の世話の一環で。美容師ごっこも混ざってたけど」
 俺がそう言うと、彼女はしばらく黙り込んでしまった。
 が
「……とても、人気があったのではないですか? 冬馬様の美容室」
 彼女のそんな問いに、ふと施設時代を思い出した。

 確かに、髪を乾かすときは俺の周りに皆群がってたかもしれない。

「うん、そこそこ」
 少しだけ照れながら答えると、彼女は微かに笑ったような気がした。
「分かります。とても優しい手つきなので」
 彼女に優しい声でそう言われたら、余計に胸が熱くなってしまった。
 ……この分じゃこっちのTシャツはすぐ乾きそうだ。

「……榊の髪、綺麗だよな」
「確かに少し気を遣ってはいますが、特段そのようなことはありません。綺麗という点では奥方様の髪に憧れているのです」
 本心なのだろう、どこか憧憬の篭った声で榊はそう言った。
 確かに母さんの栗色の髪も透明感があって綺麗だが……
「俺、榊の髪のが好きだよ」
 そう言ってしまってから、また何か墓穴を掘ったような気がして俺は内心焦った。

 ……だって、好きなものは好きなんだ。
 いい香りするし。
 柔らかいし。

「…………」
 榊が固まってしまった。
 俺もなんだかこっぱずかしくなってきて、そのまま無言でドライヤーを終える。


 おずおずと、彼女はこちらに身体を回転させて
「……ありがとうございました」
 深々と頭を下げた。
「いや、こちらこそ」
 彼女の髪を乾かす、そんな小さな夢が叶った気分でなんだか嬉しい。
「停電のお陰だな」
 俺がそうこぼすと、榊の顔色がさっと青くなった。
「どうした?」
「いえ、その……。停電した瞬間、背後に何かいたような気がしたのを思い出しまして……」
 泣きそうな顔で彼女は俯き加減にそう言った。

 ……まあ確かに、ホラー映画を見た後恐々と洗面所にいるときに停電なんかされたらそんな気もするだろう。

「……まだ怖い?」
 ぎゅっと拳を固めている彼女の手に、そっと触れる。
 自然と、彼女の顔が上がった。
「……冬馬様が、側にいてくださるときは、大丈夫なのですが」
 頬を朱に染めながらも、彼女はそう言ってくれた。
 そのまま、彼女の身体を引き寄せる。
「榊のほど効果ないかもしれないけど……俺のチャーム、いる?」

 至近距離で、見詰め合う。
 ほんの一瞬、彼女は迷った――いや、恥らったのか。
 それでもその間は本当に一瞬で。

 微かに彼女が頷いた後、俺たちはそっと唇を重ねた。


あとがき

何が書きたかったのかというと最後のそれに尽きます(笑)。
サイマガって意外と少ないんですよねそういうシーン。
まあそれもそれでいいとは思うんですが。
改訂版完結です。ありがとうございました。

2011年8月27日

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